応能負担の原則ってどこからやってくるの?

お金や税についていろいろ調べていくと、ふと「応能負担の原則」って言葉が目に止まりました。
なんか聞いたことあるけどどんなんだったかな?とあらためて調べてみると、

「各自の能力に応じて負担すること」

とあります。
そう聞くと当然じゃないかなと思いましたが、関連する言葉の欄に「応益負担」なんてのもありました。
こっちはなんだろうと調べると、

「自分が受けた利益に応じて負担すること」

使った分は自分で払えよなってことですから、こっちも当然な気もしてきます。
似た言葉なのに意味は結構違いますね。
いったいどっちが正しいのでしょうか?

いえそもそも、原則と言ってますが本当に原則なのでしょうか? それはどこからやってくるのでしょう?

 

税と聞いたら頭に浮かぶのは税金という金です。
せっかく働いて手に入れた金を税金として持っていかれてしまう。
私達は税金という負担を負っています。
普通は「金(カネ)」と考えますが、ここではちょっと別の角度から見てみたいと思います。
昔で学校で「租庸調」なんて言葉を覚えさせられました。
簡単にいうと、物を納めたり働きで税を納めてたってやつです。
それにならって税をお金の負担ではなく物や物作りの負担、という視点で見てみます。

さて、物を納めるといっても人によって作れる種類も量もさまざま。
たくさん納められる人もいれば少ない量しか納められない人もいます。
会社で新人さんとベテランさんではできる仕事の量は違うのは当たり前ですね。
さてそこで税として物を徴収しようとしても、物がない人少ない人からは徴収することはできるのでしょうか?
物がない人からは取れないのではないでしょうか。
だって物そのものがないのですから、ないものは取れないです。
ないのにそれ以上のものを取ろうとするなら度を超え、それは単に暴力になってしまいます。
一か月分の働きを明日までに終わらせろよ、なんて言われてもどれだけブラックなんだと。

例えば、会社で知識技術経験を持つベテラン社員と入社したばっかりの新人に同じ仕事の負担をやらせたらどうなるでしょう?
ベテランは当然早く多く作り上げられるが新人は時間がかかるし、ヘタをしたら潰れてしまう。
しかもそんな新人潰しみたいなことをえんえんと続けていたら社員は誰も育たず、会社自体つぶれる憂き目にあうでしょう。
そうならない為には、どうすればよいか?
それは、会社全体を見てベテラン社員と新人の仕事の量も負担も変わってくるし変えなくてはいけない、というふうに普通は考えると思います。
それは会社全体を見渡して初めてわかることですね。

さて、これまで税を税金ではなく物で見てきました。
そうは言っても会社と税は違うって? しかも税は昔は物納がそうだったかもしれないが今はあくまで税金として金を納めるの普通です。
会社で働いたら給料として金は手に入るけど税は持っていかれるだけだし、現代では納めるのはあくまで金であり物に例えるのは意味がないのでは?と。
確かに「自分」だけで見たらそうでしょう。
金を手に入れられるどころか自分の金を取られるのが税金であって、持っていくのは政府。
自分(の金)と政府の(金という)関係だけで見ていたら税は税金というただの数字、そこには自分と政府という狭い関係だけです。

ところで税って何を納めますか? 当然お金です。
しかもどこのお金でもよいわけではなく日本円でしか受け取ってもらえません。
日本のお金を手に入れないといけません。
ならそのお金を手に入れるにはどうする? 普通は所得給料ですね、つまり働くこと働いて物を作る事。
そして作った物を売る。
それを誰に売りますか? 当然日本円を持つ人です。
働いて作った物を日本円を持つ人に渡して売らないと、税を払うお金は手に入らない。
外国に渡して(売って)も、手に入るのは外国のお金であってそれでは税は払えません。
もちろん両替為替など通して払うにしても、それでも日本のお金の大部分は国内、つまり同じ国民が持っています。
そう、税金を払うには同じ国民同胞、つまり「私達」の求めるものを作り渡さないといけない。

日本は建前として同じ国民ということになっていますが、その実態は外国人に参政権や国籍をほいほい渡せばいいという考えが広がっている様に、すでに同胞という感覚はなくなってきているのかもしれません。
経済も輸出や観光や移民といった外ばかりに目を向けている。
自分が儲けるだけならそれでいいと、内側を見ない様になってる、自分だけという感覚。
現代は「みんな」とか「私達」という視点を誰もかれも分からなくなってる、持ち得なくなってきているのではないでしょうか。
「みんな」という感覚をなくし自分だけよければいい、政府だけよければいいとバラバラにしか見えなくなったら、応能負担なんて言葉は上っ面だけの空っぽになり、誰も信じず守らなくなるでしょう。
だってまっとうな会社の例のように、会社全体を見渡して社員おのおのの力にあった分を見繕うなんてできなく、いえしなくなるのですから。
能力に応じての負担なんて正直に信じた者だけがバカを見る、なら自分の金自分の給料しか目が向かなくなる。

税はただただ重くなり、金を度を越して奪われる暴力になる。
自分が受けたサービスの分は自分で払え、金を多く払うやつには質の高いサービスを、少ししか払わない奴には低いサービスを。
社会保障に払う金は増え続け、医療費の自己負担はあがり高い金を払うやつだけが質の良い医療をうけられる。
金持ちは金があるから優遇、金がない弱者はうっとうしいからはした金だけ渡してだまらせとけ!
自己負担自己責任、それが自由、それが原則だという事になっていく。

 

 

お金は物を買うのに使います、誰かが働いて物を作ってくれるからこそ、そのお金は使え私達は物を買う事ができます。
つまり、お金の裏には物がある物作りがある、人がいる働いている人がいる、と言えるかもしれません。
なら税金というお金の裏にも、物が物作りが人が働いている人がいるのではないでしょうか。
そして自由に使える自分の金と違い、税金というお金は自由ではないです、縛りがある。
税は納税の義務といわれ納めないといけないとされてます。
なら物作りとしての税の縛りは義務は自由ではない所は、自分の利益にならないのにしなければいけない事とはいったい何なのでしょう? 自分と政府以外には何があるのでしょう?

それは、税を払うには同じ国民同胞という「私達」の求めるもの欲しいもの需要する物を作り渡す、お互いに物を作りあう渡しあう譲りあう、そうやってようやくみんな所得給料を得て税を払うことができるようになる。

税を税金という金だけで考えると、金はただの数字に見えてくる、物作りも人も見えなくなってくる、お金と物作りの繋がりがわからくなる、見えるのは自分と政府だけになる。
税収という数字をとにかく増やせばいい、金という数字を際限なく欲望のおもむくままに増やし続けることだけに熱中し、税金はそんな金(数字)を減らすだけの行為にしか見えなくなってくるでしょう。
税は邪魔なものいらないものに見え、みんなで負担しようとするのではなく自分や自分の会社の負担を軽くするために他の誰かに増税を押し付ける道具になっていく。
他の奴に負担を押し付ければ自分の負担は軽くなり、勝ち組になれる!と思うようになる。

能力に応じて負担を分け合うという応能負担の原則がどこからやって来るのか?、というと税を金だけでなく物作りの視点を絡める。
そして全体を見渡しみんなの物作りという視点をもったうえで個々の力に寄り添う。

そこに「お互いに」という「感覚」があるところから、応能負担の原則は生まれてくるものなのかもしれません。

 

「税は財源ではない」は本当?~税は「何に」なるのか~

 

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