皆様、こちらではお初にお目にかかります。私、財源研究室の副管理人(現・財研出版 書籍選定アドバイザー)をしているZAIでございます。今回は『税は財源ではない』という言葉に関しての私自身の個人的な所感に付いて説明したいと思います。
その前にまずはこちらのTweetをご覧くださいませ。
正直、供給能力が財源であるという主張に関して私達、財源研究室は主な論点の一つでありますので、そこが気に食わないというのは私共と致しましては少々心苦しいものがございますが、そもそもこれは『財』というものの定義の捉え方の違いかと考えております。
織原氏の云うところの『財』というのは一般論でいうところの流通貨幣(通貨)の事を指しておられるのだろうと容易に推察されますが、我々の定義するところの『財』は、有形財(モノ)、無形財(サービス)或いは人的資源、物的資源などのリソースの事を指しておりますし、本来的な『財』の意味としてはそちらの方がより適切ではないかとも私共は考えております。
確かに財を通貨とするならば、財源そのものは存在しないという言い分は順当なのではあります。
日本政府は国定通貨自体を発行する権限を持ちますが、それは徴税とは全く別の処理です。具体的には
・政府支出(通貨の発生)
・徴税(通貨の抹消)
この二つはそれぞれに独立した処理なので、政府支出を行うので徴税を行う必要性は全く無いのです。ただ徴税に関してはそもそも通貨が発生してなければ行えないのですから、最初の処理は必ず政府支出になります。これが所謂、スペンディングファーストと呼ばれるものですね。
つまりこの場合の『税は財源でない』というものは、言い換えれば政府支出の支払い能力を得るために収入源を作る必要はない(若しくは収入源というものがそもそも無い)という話なのであります。システム的にはそれこそ無限に通貨を何らかの記録媒体に記帳させる事が出来る訳です。
ただ、そもそもカネは資源分配を媒介するための道具でしか無いと思うので、カネ=財という考え方に固執するのも少々馬鹿馬鹿しいのではとも考えるのではないかと考えます。
そもそもが、通貨というものは実体を持たないただの概念、約束事の一種であり計算単位、何かを図る尺度に過ぎないものではあります。1kmや1kgという単位そのものを目で観たものは居ないように、1ドルや1円というものを実体として見る事は出来ないわけです(現金は飽くまでその計算単位を記帳した紙に過ぎませんし、銀行預金もデータとしてその概念を記帳しているという事に過ぎません)
そうして、約束には当然それを履行する為の背景と言うものが必要となります。それが先程も触れました、私共が『財』と定義するのにより適切と判断しているリソース(資源)だと考えております。
無人島に幾らカネを持っていっても、それを引き換えるモノなりサービスなりがなければ意味がありません。それはいうなれば空約束に等しいものであります。
話は戻りますが『財源が供給能力』であるというのは要は、
『財』=モノやサービス、『源』=その供給能力
という解釈な訳ですね。
そこで『財』がリソースという言葉を踏まえると、そういう意味では
『税は財源である』
とも言えてしまうわけです。これがMMTなどでよく言われる財政スペースの概念なのですよね。この場合は正確には徴税は『政府の資源徴用余地を増やす』という意味合いになります。どういう事かと申しますと、まず徴税は徴収された側の購買力を奪うという行為になります。そうなれば彼等が購入するはずだった何らかの資源が余るので、その分、政府がそれを徴用する事が出来る(財政スペースが増える)という事になります。
(もっともこの辺は徴税すれば単純にその分だけスペースが増えるという話ではないです。徴税先の消費性向が低ければ増加分は低くなると云う側面もあるかとは思います。極端な話、消費性向が0の所から徴税して場合は資源徴用余地は全く増えません)
要するに徴税は通貨というツールを用いて、我々が間接的に資源を政府に対して物納しているのと似たような処理であるという話ですね。
私は基本的には(財を通貨と定義した場合の)『税は財源ではない』という言葉はあまり好きではありません。何故ならば通貨そのものは無限に発生させることは出来ても、その通貨に名目的な価値を与える裏付けはリソースであるからです。
リソースを無視した税財源論はUBIの様な恒久的給付金政策などの『とにかくカネをバラ撒けば万事解決』という論調を徒に刺激して好ましくないと考えております。使用用途を限定しない供給力を軽視したバラ撒きは全産業のインフレ圧をいたずらに高める結果になる可能性が高いです。
現にアメリカではコロナの給付金対策で日本円にして200兆円以上の給付金を行っておりますが、結果として9%以上の物価上昇を引き起こし、賃金上昇が6%にも届かないと言う事が現実に起こっております。
需要喚起策というのをまるで否定するという訳ではないのですが、供給がそれに追いつかない様ではいけないわけで、故に必要な所に財政支出するという視点が必要なのであります。
(これをワイズスペンディングなどと混同する輩もいるからこれまた困ったものではありますが)
この話は、我々は何に拠って生きているかという事を改めて見直すという事でもあります。おカネ自体は価値尺度の単位であり何の特性も持たない(だからこそ尺度足り得る訳ですが)訳です。ですがモノやサービス自体の実質的な価値ですら良く生きる為の手段に過ぎない訳です。
現在は得てすれば『カネ>モノ>人』という状態になっております(だからこそカネでカネを稼ぎ、財であるモノやサービスを軽視するという行為が横行する訳ですが。その倒錯した流れを『カネ<モノ<人』という本来の流れに戻さねばならない訳です。
でなければ社会そのものが維持できず、最終的には富裕層・貧困層関係なく全て共倒れになって終わってしまう可能性すらあります。全ては人間の永続的な健康で幸福な生活の為に存在しているのです。
©ZAI
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